5月19日16時すぎ、メディア各社が星野源さんと新垣結衣さんの結婚を一斉に報じ、日本中が驚きと祝福の声に包まれました。
2人は2016年秋に放送されたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(TBS系)で共演。さらに今年1月に放送された同作続編での再会をきっかけに交際をスタートさせ、結婚に至ったことなどが明らかになり、大きな反響を呼んでいます。
ネット上に挙がっている声は、まさに祝福ムード一色。通常これほどの人気者同士が結婚発表すると、「ロス」「ショック」の声が目立つほか、なかには「しっくりこない」「どうせすぐに別れるだろう」などの否定や、「なぜ今?」「こんな時期に」などの批判も挙がるものですが、今回は限りなく少ないことに気づかされます。
なぜ星野さんと新垣さんの結婚発表は祝福ムード一色で、否定や批判が出づらいのでしょうか。
浮ついたところのない仕事第一の姿勢
祝福ムード一色で否定や批判が出づらいのは、2人が単に「美男美女だから」「売れっ子同士だから」ではないでしょう。
真っ先に挙げられる理由は、「世間の人々が2人に浮ついたイメージを持っていなかった」「仕事に打ち込み、プライベートは地味だと思われていた」こと。
星野さんは以前から、アーティスト、俳優、文筆家として、真摯に作品と向き合うタイプとして知られていました。その背景には、結婚コメントに「以前、こんな風に畏まった形でご報告をしたのは、病に倒れて活動を休止した時だったと思います」とつづっていたように、二度にわたる、くも膜下出血での休養があります。
命の危機にさらされたあとの星野さんは、より感謝の思いを込めて仕事に挑むストイックな姿を見せてきましたし、今回のコメントでも「自身の音楽活動や役者としての活動、文筆などさまざまなお仕事に対してこれまで以上に、1つひとつ大切に向き合っていきたいと思います」と語っていました。
一方の新垣さんも、沖縄から上京後の10代半ばから女優業一筋。結婚コメントに「現場で試行錯誤する日々はそれはそれは刺激的な毎日で、いつしかその分、私生活は低刺激な時間を求め心がけ過ごしてまいりました」とつづっていたように、休日も家で料理や掃除をしてのんびり過ごすなど、浮ついたところが一切ありません。交友関係も広いわけではなく、時折話すエピソードは「撮影現場で知り合った共演女優と自宅で過ごす」というレベルだったのです。
たとえば、近年は会社経営者や、高収入のエリートビジネスパーソンと結婚する芸能人が増えていますが、「新垣さんはそのような人たちと知り合う場に行っていないだろう」と感じている人が多いのではないでしょうか。新垣さんも星野さんも、外で飲み歩くところを写真週刊誌に撮られるなどのケースがほとんどなく、だから「撮影現場で知り合った」という職場結婚は自然であり、祝福しやすいのです。
有吉弘行、夏目三久夫妻との共通点
華やかな世界にいるスターの2人が、一般人よりも地味な自宅デートで愛を育んだことも、星野さんと新垣さんらしく好印象を決定づけました。この点は4月2日に結婚を発表した有吉弘行さんと夏目三久さんと似ていて、やはり祝福ムード一色だったところが共通しています。
星野さんと新垣さん、有吉さんと夏目さんの両カップルにもう1つ共通しているのは、事前情報がほとんどなかったこと。この4人はこのところ「熱愛中」「結婚間近か」「破局危機」などと報じられる機会がなく、本人たちもバラエティーやSNSなどで、それをにおわせるようなコメントもしていなかったため、先入観や憶測が生まれず素直に祝福しやすかったのです。
もし両カップルの周辺にさまざまな噂が報じられていたら、それが人々の先入観や憶測につながり、もう少し否定や批判の声が挙がっていたでしょう。メディアも、それを見る人々も、無責任にさまざまな声を挙げ、それが特定の印象につながりやすいだけに、芸能人にとって「いろいろと噂されていないこと」は重要なのです。
もちろん2人が出会ったドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の影響も多分にあるでしょう。劇中では、契約結婚した2人が、一緒に暮らすことで少しずつ互いを知って距離を縮め、心を通わせていき、本当の夫婦になっていく様子を多くの視聴者が見ていました。
実際の2人に「ハグの日」「温泉一泊旅行」「不意のキス」などがあったかはわかりませんが、ドラマと同じように少しずつ互いを知って距離を縮め、心を通わせていった様子が想像できるから祝福したくなって当然なのです。
ドラマでは2人の間に子どもが生まれる様子も描かれただけに、今後もし現実が重なることがあれば、「逃げ恥ベイビー誕生」などと今回同様の祝福モード一色に包まれるでしょう。
「ロス」「ショック」に陥る人の心理
最後にコンサルタントの立場から、これだけ祝福しやすいケースであるにもかかわらず、「ロス」「ショック」と声を挙げる人の心理を挙げておきましょう。
ネット上の声を見ていくと、星野源さんと新垣結衣さんの熱心なファンほど、「ロス」「ショック」などの声を挙げず、祝福している様子が見られました。これは決して強がりではなく、偽らざる本音でしょう。つまり、「ロス」「ショック」の声を挙げているのは、熱心なファンではなく、2人の「見た目」、あるいは「才能」などの一部分への執着心を持つタイプの人なのです。
だからこそ今、「ロス」「ショック」の声を挙げている人は、2人の代替となる見た目や才能を持つ人を見つけて執着しはじめるでしょう。本当の「ロス」「ショック」が続くのは、その大半が、家族、親友、ペットなどの物理的な距離感が近い存在に対してであり、芸能人に対して続くケースは極めて少ないものです。
ともあれ、コロナ禍に加えて、名優・田村正和さんの訃報で日本中が沈み込んでいた中で舞い込んできた2人の結婚は、人々を笑顔にさせてくれました。そのポジティブな影響力こそが、今後も2人の芸能活動が安泰であることを物語っています。
- 2021/05/21(金) 10:06:00|
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写真 終業する石原プロモーションの商号と、石原裕次郎さん(左)渡哲也さんの写真 |
昭和の大スター石原裕次郎さん(享年52)が立ち上げた石原プロモーションが16日、58年の歴史に幕を下ろした。
この日、商号を記した看板が裕次郎さんの仏前に返還され、2代目社長だった渡哲也さん(享年78)の墓前にも返還報告がなされた。東京・調布の同プロでは、舘ひろし(70)ら所属俳優が終業を見届けるとともに「石原軍団DNA」の不滅を誓った。
◇ ◇ ◇
石原プロモーション事務所には、商号を記した看板と、裕次郎さん、渡さんの写真が飾られた。専務の浅野謙治郎氏が商号返還と終業を宣言し、スタッフと俳優らが厳かに礼をした。
舘は「いざ閉めるとなるとさびしいな」とぽつり。2人の写真を見て「思い出が走馬灯のようにいっぱい湧き上がってきます。2人に対して本当に感謝です。今あるのは、石原さんが大きく包み込んでくれたのと、渡さんのおかげ」と話した。神田正輝(70)はこの日、大阪でテレビ朝日系「朝だ! 生です旅サラダ」の生出演のため出席できなかったが、舘は「同じ気持ちだと思う」と代弁した。
裕次郎さんは63年、大手映画会社が監督、俳優の専属契約に関して結んでいた「五社協定」の枠を超えて映画作りをするため、石原プロを立ち上げた。1月16日は会社として登記された日に当たる。
87年に亡くなった裕次郎さんは、まき子夫人に会社を畳むよう遺言していたが、社員や俳優の生活を守るため、渡さんが2代目社長を引き継いだ。11年に渡さんは社長を勇退したが、会長のまき子夫人とともに会社を支え続けた。
危機は何度もあった。大規模な映画製作で8億円の負債を抱えた時はドラマ制作にかじを切り、「西部警察」など大ヒット作を生んだ。03年には同作の新シリーズ撮影中、自動車事故で見学中のファンがけがを負った。渡さんは制作中止を即断、同プロ解散も考えた。当時、車を運転していた池田努(42)は「切られておかしくない状況でしたが、今日ここにいられるのは、温かく家族のように守ってくれた会社、先輩たちのおかげで、感謝の気持ちでいっぱいです」と話した。舘も「誰一人として責める人がいなかった」と振り返り、徳重聡(42)も「ピンチから立ち直るすごさがあった」と話した。
石原プロモーションの名前はなくなるが、舘は「(裕次郎さんと渡さん)2人のDNAが残っているのをあらためて感じています。1つ屋根の下で一緒に飯を食ってきた」と見回した。
今後、3月いっぱい残務整理などを行い、12月に清算完了する。【小林千穂】
○…商号を記した看板は、浅野氏の手で、東京・成城の裕次郎さんの自宅に運ばれ仏壇に供えられた。まき子夫人は「来る時が来ましたね」と穏やかだったという。まき子夫人は今後、裕次郎さんに関する版権を管理する石原音楽出版、一般社団法人ISHIHARAの名誉会長を務める。「命ある限り裕次郎の名前を守っていきます」と話している。看板は成城に向かう前に渡さんの自宅に寄り、商号返還が報告された。
<石原プロモーションの歩み>
▼1962年12月27日 石原裕次郎さん、会社設立会見
▼63年1月16日 虎ノ門を事務所に登記。裕次郎さん社長、社員9人
▼同10月 映画第1弾「太平洋ひとりぼっち」公開
▼64年 三船プロダクションとの提携発表
▼68年2月 映画「黒部の太陽」公開。観客動員733万人
▼69年7月 映画「栄光への5000キロ」公開
▼70年 映画「富士山頂」「ある兵士の賭け」公開。「ある兵士-」が興行的に失敗、倒産危機に。裕次郎さん宝酒造CM初出演
▼72年 渡哲也さん入社。日本テレビ系「太陽にほえろ!」スタート
▼73年 神田正輝入社。調布に事務所移転
▼76年 1月、初の制作ドラマ、日本テレビ系「大都会 闘いの日々」開始
▼79年 10月、テレビ朝日系「西部警察」開始
▼81年4月 裕次郎さん、解離性大動脈瘤(りゅう)破裂で入院、手術
▼83年 舘ひろし入社。創立20周年パーティー
▼84年 裕次郎さん肝臓がんと診断。ハワイ静養
▼87年7月17日 裕次郎さん死去。3カ月後、渡さん社長に就任
▼88年12月 日刊スポーツ映画大賞/石原裕次郎賞が始まる
▼91年 6月、渡さん直腸がんで手術。7月、小樽市に石原裕次郎記念館開館
▼95年2月 阪神・淡路大震災被災地で炊き出し
▼99年7月 総持寺で裕次郎さん十三回忌法要
▼00年8月 「21世紀の石原裕次郎を探せ!」オーディション。徳重聡がグランプリ
▼09年7月 国立競技場で二十三回忌法要
▼11年 3月、渡さん社長勇退。4月、東日本大震災被災地で炊き出し
▼13年 設立50周年
▼16年6月 熊本地震被災地で炊き出し
▼17年8月 石原裕次郎記念館閉館
▼19年7月 三十三回忌で弔い上げ
▼20年8月 渡さん死去
▼21年1月16日 裕次郎さん仏前に商号返還
《数字で見る石原プロモーション》
▼放水量420トン 映画「黒部の太陽」撮影での出水場面シーン。裕次郎さんは失神、親指骨折、大腿(だいたい)部打撲
▼見舞客1万2000人、千羽鶴1000束 81年、裕次郎さんが解離性大動脈瘤(りゅう)破裂での入院時
▼車両約4680台爆破、建物320軒破壊 テレビ朝日系「西部警察」の撮影で
▼20万人 99年、鶴見・総持寺での裕次郎さん十三回忌に集まったファン
▼11万6862人 09年、国立競技場で行った裕次郎さん二十三回忌法要の参列者
▼7日間で1万4000食 11年、宮城県石巻市での炊き出しで提供
▼2000万人 小樽の石原裕次郎記念館(91~17年)の来館者数
▼102作と88作 裕次郎さんと渡さんが出演した映画
- 2021/01/17(日) 11:34:00|
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テレビ東京の人気者・鷲見玲奈アナの退社がいよいよ迫ってきた。
「4月からフリーに転身するのですが、彼女は複数の同僚の前で、酔って男性Aアナとワイセツな行為をしたとされ、その真偽はナゾのまま。Aアナは異動となっています。局はワイセツの事実はないとしていますが、そうならば、なぜAアナが異動になったのか。鷲見アナも、どうして突然フリーになるのか。どうもスッキリしません。彼女のワイセツ疑惑は一部週刊誌が報じましたが、他方で、同僚の女子アナBにハメられたという説も。鷲見アナとBアナは仲が悪く、鷲見アナは『Bアナにハメられた』と涙で退職届を出したともウワサされています。Bアナが鷲見アナの人気を妬んだともっぱらなのです」(番組制作会社関係者)
テレ東は在京局では規模は大きくなく、当然、局アナウンサーは少ないのだが、意外と人気アナは多い。
「鷲見アナの他、知性派美人の大江麻理子アナや相内優香アナ、毎日放送から転職してきた福田典子アナなど、少人数ながら人気アナが多い。つまりテレ東に入れば人気者になれる確率が高いのです」(女子アナライター)
実際、鷲見アナは〝女子アナ人気ランク〟では、田中みな実に次ぐ2位というのが定位置だ。
「鷲見アナが辞めると決まった日から、後継狙いの戦いが始まっています。特に20代の若手は、自分を目立たせるのに必死です」(同・ライター)
- 2020/10/18(日) 09:46:53|
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